【短編小説】ある日、僕の犬が仙人になった

小説

物語について
疲れやすく、人混みが苦手なHSP気質の青年ナルは、セルフケアの習慣を大切にしながら日々を過ごしていた。ある秋の夕暮れ、飼い犬のゴールデンレトリバー・ラッキーが突然、人間の言葉を話し始める。仙人のような知恵を持つラッキーは、ナルに「心の静けさ」について、たった一つの本質的な教えを授けてくれる。子犬のゴンと意地悪な猫のまるも加わり、小さな家の中で繰り広げられる心温まる一夜の物語。

登場人物

  • ナル:20代男性。丸眼鏡と青いカーディガンがトレードマーク。HSP・内向型で、犬と読書を愛する。
  • ラッキー:ナルの飼い犬、ゴールデンレトリバー。ある日突然話せるようになった仙人犬。
  • ゴン:まだ幼いダックスフンド。元気いっぱいでやんちゃ。
  • まる:少し意地悪な猫。でも根は優しい。

第一章:話す犬

秋の夕暮れ、オレンジ色の光が窓から差し込むリビングで、ナルは青いカーディガンを羽織りながらソファに座っていた。膝の上には文庫本。隣には、いつものようにゴールデンレトリバーのラッキーが寝そべっている。

その日、ナルは疲れていた。友人から久しぶりに食事の誘いを受けたのだが、賑やかなレストランで2時間過ごしただけで、帰宅後はぐったりとしてしまった。楽しかったはずなのに、体も心も重かった。

「なんだか楽しかったけど、自分疲れてるなぁ」

ナルが独り言のようにつぶやくと、ラッキーがゆっくりと頭を持ち上げた。

「それは、君が自分のペースを忘れているからだよ」

ナルは本を落としそうになった。声は確かに、ラッキーから聞こえた。

「……え?」

「驚くのも無理はないね」ラッキーは穏やかな目でナルを見つめた。「でも心配しないで。僕はずっと君のことを見てきたんだ。今日は、少し話をしようと思ってね」

部屋の隅で毛づくろいをしていた猫のまるが、耳をぴくりと動かした。

「あら、ラッキーったらついに本性を現したのね。私は前から知ってたわよ」

子犬のゴンが、しっぽを振りながら駆け寄ってきた。

「ラッキー、すごい! 僕も話せるの?」

「ゴン、君はもう話しているだろう」ラッキーは静かに微笑んだ。

ナルは混乱しながらも、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、長年の友人と初めて本音で語り合えるような、そんな安心感があった。


第二章:静けさの本質

「ナル」ラッキーは立ち上がり、ナルの目をじっと見つめた。「君は毎日、運動や食事、睡眠に気を配っている。素晴らしいことだ。でも、一つだけ見落としているものがある」

「何?」

「それは、『静けさ』だよ」

ナルは眉をひそめた。「静けさ? 僕は人混みを避けて、静かな場所で過ごしているつもりだけど」

「外側の静けさではない」ラッキーは窓辺に歩いていき、夕日を眺めた。「僕が言っているのは、心の内側の静けさだ」

まるがソファの背もたれに飛び乗り、爪を研ぎながら口を挟んだ。

「要するに、あなたの頭の中、うるさすぎるってことよ」

「まる!」ゴンが抗議したが、まるは涼しい顔をしていた。

「でも本当のことでしょ。いつも何か考えてる。『あの言い方、悪かったかな』『明日はどうしよう』『なんでこんなに疲れるんだろう』ってね」

ナルは返す言葉がなかった。その通りだったからだ。

ラッキーが振り返った。

「HSPや内向型の人は、情報を深く処理する。それは才能だ。でも同時に、心の中に常に思考の波が立っている。それが疲れの本当の原因なんだよ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「波を止めようとしてはいけない」ラッキーは静かに言った。「波は自然なものだ。大切なのは、波の下にある深い静けさに気づくことだ」


第三章:湖の底

ゴンが首をかしげた。

「波の下の静けさって、なに?」

ラッキーはゆっくりと説明を始めた。

「想像してごらん。湖の表面には、風で波が立っている。それが僕たちの思考や感情だ。でも、湖の底はどうだろう? どんなに表面が荒れていても、底は静かで動かない」

ナルは目を閉じた。確かに、自分の中には常に思考が渦巻いている。でも、その奥底には何かがある気がした。

「その静けさに触れる方法があるんだよ」ラッキーは続けた。「それは『観察』だ」

「観察?」

「そう。思考を止めようとするのではなく、ただ見つめる。『ああ、今、心配事を考えているな』『今、疲れを感じているな』と、まるで空を流れる雲を眺めるように」

まるがあくびをしながら言った。

「心理学では『メタ認知』って言うのよね。自分の思考を客観的に見ること。脳科学的にも、前頭前皮質が活性化して、扁桃体の過剰反応を抑えられるって」

ナルは驚いた。「まる、詳しいんだね」

「猫は観察の達人ですもの」まるは得意げに胸を張った。

ラッキーが穏やかに笑った。

「まるの言う通りだ。観察することで、君は思考に巻き込まれなくなる。思考はあるけれど、君自身は静けさの中にいる」


第四章:実践

「でも、どうやって練習すればいいの?」ナルは真剣に尋ねた。

ラッキーは床に座り、ナルの前に座るよう促した。ゴンもまるも、自然と集まってきた。

「今から、たった3分間だけ試してみよう」ラッキーが言った。「目を閉じて、呼吸に意識を向ける。そして、心に浮かんでくる思考をただ見つめる。『あ、今、明日の予定を考えているな』と気づいたら、優しく呼吸に戻る。それだけだ」

ナルは半信半疑だったが、目を閉じた。

最初は、次々と思考が浮かんできた。今日の友人との会話、言い忘れたこと、明日の予定、読みかけの本の続き。でも、ラッキーの言葉を思い出し、それらをただ観察した。

不思議なことに、思考を見つめているうちに、思考との距離ができていった。まるで、映画館でスクリーンを眺めているような感覚。そして、その奥に、確かに静けさがあった。

3分後、ナルが目を開けると、ラッキーが微笑んでいた。

「どうだった?」

「すごい……本当に、静けさがあった」

ゴンが興奮して尋ねた。

「ねえ、僕もやってみていい?」

「もちろん」ラッキーは優しく答えた。「誰でもできる。静けさは、全ての生き物の中にあるんだ」

まるがぼそりと言った。

「実は、猫はいつもそうしてるのよ。だから、いつも平和なの」


第五章:小さな革命

その夜、ナルは久しぶりにぐっすりと眠った。翌朝、目覚めたとき、いつもの「やることリスト」への焦りが少し薄れていた。

朝食を食べながら、ラッキーに尋ねた。

「あの静けさって、セルフケアの習慣みたいに、毎日続けるものなの?」

「習慣にはなるけれど、それ以上のものだ」ラッキーは水を飲みながら答えた。「運動や食事は体を整える。でも、静けさは君の『あり方』を変える。どんなに外側が騒がしくても、君は自分の中心にいられるようになる」

ゴンがナルの足元でじゃれついた。

「ナル、今日も一緒に遊ぼうね!」

まるが窓辺で伸びをしながら言った。

「静けさがあれば、ゴンのうるささにも耐えられるかもね」

「ひどい!」ゴンが抗議したが、まるは笑っていた。

ナルは、温かい気持ちになった。この小さな家族と、この静かな朝。思考の波は相変わらず立っているけれど、その下に確かな静けさがある。

「ありがとう、ラッキー」

「いや、君がすでに知っていたことだよ」ラッキーは静かに言った。「僕はただ、思い出させただけだ」


エピローグ:続く日々

それから、ナルの日常は少しずつ変わっていった。友人との食事も続けたが、以前ほど疲れを引きずらなくなった。人混みは相変わらず苦手だったが、心の中に静けさがあれば、それも乗り越えられた。

ラッキーは、その後も時々話しかけてきた。いつも深い洞察に満ちた言葉で、ナルを導いてくれた。ゴンは相変わらず元気で、まるは相変わらず意地悪だったけれど、それもまた愛おしかった。

ある日曜日の午後、ナルは本を読みながら、ふと思った。静けさは、どこか遠くにあるものではない。それは、いつも自分の中にある。思考の波の下に、感情の嵐の奥に。そこに触れることができれば、どんな状況でも揺らがない自分でいられる。

本を閉じて、隣で眠るラッキーの頭を優しく撫でた。

「また、明日も教えてね」

ラッキーは目を閉じたまま、しっぽを一度だけ振った。

窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしていた。部屋の中には、穏やかな時間が流れていた。ゴンの寝息と、まるの喉を鳴らす音。そして、ナルの静かな呼吸。

全てが、あるべき場所にあった。


おわり

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